本連載の予定
第4回 数理親和音モデル
第5回 和声単位という和声構築法
第6回 和声の分子構造
第7回 増四度環と裏領域
第8回 調という幽霊を発生させる和声の反応領域
第9回 和声二元論が成り立たない理由
第10回 長調と短調の二極化から旋調性へ
11回 負の音を作ってみよう
最終回 まとめ~ドミナントモーションから動和音へ
(※進捗によっては、若干のテーマ変更の可能性もございます。ご了承下さい。)
9回 和声二元論が成り立たない理由
皆さん、こんにちは。
今回表題とした「和声二元論が成り立たない理由」は少し語調が強かった、と反省しています。ここで述べるのは、和声解釈の複雑化が和声をどこまでも二極的に分化して考えることはできない、ということです。二元論そのものを、より一般的に考えて頂くためのトピックです。 まず「和声二元論」についてですが、
『とくに長調は長 3 和音が自然倍音列に含まれるなど,自然現象にその存立根拠を容易に 見いだせるのに対し,短調についてはその種の音響学的な説明が困難であるため,さまざ まな説が提起されてきている。長調・短調を本質的には同一のものとみなす和声一元論や, 短調を長調の鏡像として自然界には存在しないはずの下方倍音列からとらえようとする和 声二元論などがおもなものである。』(『世界大百科事典』より)
とあります。「鏡像」的存在というニュアンスが、二元論的な意味を明確に示していると 思いますが、この鏡像性は音楽の多解釈性により当然雑然と混合されていき、結果として 二極的に見る必要が無くなる、というのはなんとなくイメージが湧くのではないでしょう か。二元論という言葉だけが独り歩きし、その性格が良く把握されていないように感じ、 今回このポイントを取り上げてみました。
まず次の I,II,の条件をご覧ください。
I,基音 c にとっての上方 3 倍音である g
II,基音 g にとっての下方 3 倍音である c
この I,のみで作ることのできる音楽理論が機能和声論です。そして II,を並立させて用い るのが二元論的見方と言えます。基音を g として上方に G△、下方に Cm という構図は良 く知られたものだと思います(図 1 参照)。
図1 ここから音楽の全てを作る方法論が構築できれば、それは和声二元論だと思うのですが、
実際はそう簡単にはいきません。例えば譜例1におけるそれぞれの Cm の響いた感じを解 釈してみてください。
譜例1
これらは全て同じ Cm ですが、それぞれの Cm にそれぞれ音楽的ニュアンスに差異が感じら れると思います。それは機能理論的なものかもしれませんし、個々人の思い出や経験に帰 することのできる差異感=個々人の音楽のクオリアかもしれません。この差異感をいかに 個々人が具体的に表現できるか、がミクロ的な考察では大切だと思います。 その抽象性を落とし込むために不定調性論が用いるのは、和音の各構成音を図形的に配置 する方法です。
譜例1に基づき、図 2 のように和声の分子構造図という形態で示します。和声の分子構造 図については、連載第6回にても少し触れました。譜例 1 の 2 小節目 Cm が解釈 1、3 小節 目 Cm が解釈 2、5 小節目 Cm が解釈 3 です。
図2
解釈 1 は、cを中心に作っており、g は c の上方倍音となります。解釈2は、中心を g に 置いた下方倍音列的な Cm です。解釈 3 は e♭が中心となる上方系の和音となっています。 和声の構造をこのように上下の領域を混交させ、解釈を変えることができる、としたほう が利便性に富む、という考え方を不定調性論は採用しているわけです。最初は二元論的な アプローチでも、それがどんどん混交していくさまが教材でも見てとれると思います。
私の考えを述べれば、和声二元論というのは、この出発点の事のみを言うのであって、実際の和声において、領域混交についていかなる方法論を提示できるかが現代音楽理論の考慮すべき所だ、と思います。確かに下方の領域を用いることは数理的に便利ですし、上方倍音を用いた機能和声論の刷り込まれた感覚は、これはこれで絶対です。そのバランスをうまく保つ方法論の構築など、音楽演奏や作曲に必要とされていないことから、そういった論議が行われないだけだと思います。
どんな理論から生み出された音楽であれ、それを解釈するのは、聴き手の自由な意識です。 音楽の印象など、広がった雲のように自由に心の内を飛んでいける方が良いに決まってい ます。それのことを音楽理論が現代的視点でどう考えるか、だと思います。
一つ問いかけをしてみましょう。
問;コードが CM7 から次の小節で AM7 に移行した時、その音楽に何が起きたのか。
この問いの根源を二元論であるか否かという所まで落とす必要が無い、ということです。 もし音楽演奏が「数式」であれば、楽想を聴いて心に浮かぶクオリア=印象・感動が、数 学でいう「解」に近い存在なのではないでしょうか。CM7⇒AM7 のサウンドの結果、個々 人が感じる小さな「喜び」を”数学的解に厳密に置き換える必要のない行動”が”音楽鑑 賞”であり、そのおおらかな楽しみ方が魅力です。
機能和声論では、CM7⇒AM7 を「平行調への同主転調」と分析できますが、そもそも「転 調」とは「もともとあった調べを、別の調べに転ずる」ということです。しかし調という 概念を前提に規定してしまうと、機能論の限界にぶち当たるのではないか、と私は考えま す。
不定調性論は機能和声論の抽象的理解を一人一人の感覚で推し進めることのできるプラグ インソフトにしたくて構成しました。CM7⇒AM7 であれば「静和音から静和音への動進 行」という形態的分類のみがなされ、そこから機能和声論なり、和声二元論なり、自由に 学問的解釈が行われる場に提出できます。それがどのような解釈がなされるかまでは規定 しません。「鑑賞」こそが極限値にある以上、どこで分析をやめるかに気を遣いました。
少し話が広がってしまいましたが、不定調性論は二元論的土台から出発し、それらの敷居をいかに取り去るかについて様々なアイデアを設けました。リーマンらの二元論的展開に触れる方などには、ぜひご意見を頂きたいところです。
今回は以上です。 ありがとうございました。 ご質問、ご感想等はこちらまで。
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