NY+ベルリン・フィル=現代オーケストラの挑戦|リスナーズのクラシックエッセイ

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2014年10月、ベルリン・フィル(Berliner Philharmoniker)がニューヨークで6回演奏会を行う。今回のニューヨーク公演は3年ぶりで、初回のカーネギーオープニングでは、昨年ニューヨークにソリストデビューから25周年を迎えた、ドイツ人バイオリニストのアンネ・ソフィー・ムター(Anne-Sophie Mutter)がベルリンとニューヨークでは初共演するそうだ。

2回目は、約1か月前にベルリンをオープンさせたラフマニノフとストラビンスキーのプログラム。3.4回目はシューマンの交響曲全4曲を委嘱による新作1曲を含む2回の公演で演奏し、最後はバッハのマタイ受難曲を2回の合計6公演を行う。4回目まではカーネギーホールで、バッハのマタイは別な場所でやる。

この内容から、ニューヨークでベルリンを聴く面白さは、ひとつのオケが現、代近からロマン派とバロックをほぼ同時期に実現する様子を体験出来てしまうことだ。今回のベルリンは、それをどう実現して見せるのか、現代オーケストラの音楽制作の最前線に挑戦している。

まず初回。ベルリンがカーネギーホールの新シーズンをオープンする。これは2001年の故クラウディオ・アバド以来、12シーズンぶりで、音楽シーンの移り変わりと展望を知る手掛かりとなり、続く5回の公演でそれは具体的に実証されていく。そこには、アバド後のベルリンをリードし12シーズン目になる監督のサイモン・ラトルの現在が重要になってくる。そして、ラトルは9月初旬のロンドン公演に先立つメディアのインタビューに、「出来るだけ広い音楽制作の範囲を示すことに挑戦したい」と話していた。

例えば、2回目の公演は、同時代のロシア出身でありながら、全く違う特徴を持つ2人の作曲家の最晩年と初期の作品がひとつのプログラムになる。ラフマニノフの豊かな旋律に情熱が漲る交響的舞曲は、1940年にニューヨークで作曲され最後の作品となった。そして、ストラビンスキーの火の鳥は1911年に発表され、色彩と切り詰めた対位法で描かれている。

9月初旬のロンドンで行われた同じプログラムのライブ録音を聴くと、「感情表現の深みよりも、音色の美しさが優先された」交響的舞曲に、火の鳥では「鳥肌が立つ」というメディアの評価は納得がいく。そして翌日、彼らはバッハのマタイ受難曲を演奏し、前日のがっしりとたくましい性質の音が、バッハでは削ぎ落とされ有機的な感触に変わり、一晩で同じオケの演奏とは思えない音楽作りを実現していた。

これがラトルのいう「広い音楽制作の範囲」である。これには作品のアイディアを実現するために一番重要な音作りの根本を変えないといけない。例えば、ウィーンのように「私たちは今までこうしてきた」というやり方では実現できない。そしてニューヨークでは、ここにさらにシューマンが加わる。

シューマンが作品の中でモットーにしていたことは「自由に、しかし孤独に」だ。そして躁うつ病だった彼の音楽には激しいアップとダウンが繰り返され、精神の深見と矛盾と緊張感が浸透している。とてつもなく興奮した音楽の後、急にロマンチックになったり、激しさと空想が気まぐれに入れ替わり、その様子は新鮮で自然に湧き出る尽きることがないリズムの力で推し進められる。

ラトルとベルリンのシューマン演奏の一部はインターネットで見ることができるが、例えば4番を聴いてみると、何かが無いと感じる。シューマンがこの作品を生み落して以来、クラシック音楽の伝統が纏ってきた物が無い。誰かがどう演奏してきたという伝統が無い。音同士が勝手に響きあっている。

次に、同じ曲の他の演奏を聴いてみると、フレーズの決め方やアーティキュレーションの読み上げ方に、ドイツ人、または世界が歩んできた伝統が漲る演奏には興奮するし、シューマンの炸裂が腹の底から湧き起こるが、サイモンとベルリンは、音楽が何を言っているのががよく伝わってくる。

セッションが今決まって、シューベルトが描いた音のイリュージョンが単純に奏でられている。昔はどうだったとか、人がこうしたからこうしないといけなという雑味を感じない。聴いていて演奏者たちの顔が見える演奏だから面白い。

今回は2回に分けて、シューマンの4つの交響曲全曲を作られた年代順に演奏する。しかも、間にオーストリアの作曲家が作った最新作を入れている。これを一緒に聴くことで、シューマンを聴いている聴衆の感覚を、現在からずっと先の観念へ引き上げてしまう。

そして、最後2回の、キリストが弟子に裏切られて捕まり処刑されるまでの物語を音楽にしたバッハのマタイ受難曲は、オケ+合唱+オルガンが2セット。68曲から成る。それぞれの場面を表現した音楽に、キリストと弟子たち、キリストの敵、そして一般大衆らの喜怒哀楽がうまく溶け込み、まるでオペラのような音楽劇だ。

この作品は、通常ステージに定位置で演奏されるが、今回は舞台上で歌手や演奏者の演技が加わる。オーケストラのソリストたちが、歌手たちのすぐ側で、一緒に動きながら演奏する。この演出を加える理由についてラトルは、「オケのソリストたちや他のみんなに、もっと作品に親しんでもらいたかったから」という。実際、歌手と演奏が近づくことで、場面がその場で立ち上がり、聴き手は、現在そこで起こっているドラマの様にバッハ音楽を楽しめる。

そして彼は、この演奏をするために「エゴをすべて置いてこなければならなかった」と話しているが、実際どうやってそのエゴを置いてくるのか?この演出をしたピーター・セラーズ(Peter Sellars)は、「一つの教義を信じることから自由になることだ」と話している。つまり、教義との関わり方を変えるということ。”ねばならぬ”から”でもいいんじゃない?”へ考えを自由にする。

長年の舞台制作でセラーズは、これをやり続けてきたそうだ。例えば、聖母マリアがテーマの時、舞台を教会ではなくて劇場にしたり、宗教作品を世俗な事情の中に置くことで、その舞台に関わる全ての人たちの自我を自由にする試みをずっとやってきたわけだ。

出演者が心を解放し自我を乗り越えるには、「絶望を味わうことで初めて、正直な一歩を踏み出せる。」それは希望だとセラーズは言う。そして、オペラという形態は、音楽や踊りなど複合的な要素が同時にその意味を伝え、そこには神がいるのだそうだ。オペラを見ている者は、その動作の連続と意味を認識しながら、意識がどんどん移り変わり、ある時その中に最も単純で静かな瞬間の精神活動の内側を垣間見る。

ロンドンのライブのを聴いて、すぐに感じた印象は、例えば、朝起きて、仕事にいかないといけないことを心配しながら、準備をして外に出てみたら、いつもよりも空気が澄んでいて、ビルで仕切られた通りの向こうに小さな空がとても綺麗に目に入ってきたり、ほんのわずかな時間だけ希望が体全体に漲る瞬間がある。

マタイの始まりは、十字架を背負って歩くキリストの音楽から始まるのに、この演奏はそういったごく個人的な喜怒哀楽の欠片を引き出す。それはとても無欲で、オルガンでも、エバンゲリストや他のキャストが話を進める時でも、アリアの最中でも、その音の鳴りは、何かに従っているかというとそうではなく、主体性があるかというとそうでもなく、つまり共同体。

ごく自然に、ありふれた日常を聴き手の心に浮かび上がらせる。他人の関心や一般的なことより、今直面している音楽がどう聴き手に響いているか、心に留まる僅かな感覚を、興味の初動を大切に見つめ、音楽に耳を澄ませる面白さをベルリンとセラーズのバッハは気が付かせてくれる。

「私たちは職人で労働者で、謙虚と勤勉は徳である。指揮者は演奏家がいなければ何もできない。」という59歳のラトルは、ルツェルンの公演からベルリンの自宅へ移動中に行われたインタビューで答える。そして、なぜそんなに急いで帰るのかと尋ねられて、子供の学校の行事を理由にしていた。

ドイツの伝統を背景に、現在では無国籍で現代クラシック音楽のあり方を無欲に追求するベルリンとサイモン・ラトルは、ニューヨークでどんな共同作業を見せてくれるのだろう?

 

※記事はhttp://thelisteners.infoから寄稿していただきました。THE Listeners様、ありがとうございました。 

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