「石橋を叩いて渡る僕にとってはすごい決断だった」
音楽の何でも屋と呼ばれるようになった経緯はどんなものがあるのでしょうか。
音楽事務所やプロダクションに拾われたい一心で活動していた時、セルフプロデュースという事を知った大手広告代理店での経験が大きく関係しているといいます。
(インタビュー・構成/金子将昭、写真/ワクワク・ケンタロー)
−松本Johnny克樹−
ギタリスト。島村楽器のサポートを始め青山学院大学の文化祭など多数のサポートやレコーディングに参加。元Moon Childの樫山圭に師事により基礎的かつ根本的な音楽活動を学ぶ。その後ライブバーのコンサルタントやフェスなどのプランニング、RUNAのプロデュース等多方に活動の幅を広げ「音楽の何でも屋」と呼ばれ今に至る。
金子 今やっているセルフプロデュース・マネジメント的な形はどうやって作っていったんですか?
松本 根っこから話すと、元々僕は大手広告代理店の商業用に特化したバンドのメンバーだったんです。
金子 商業用に特化っていうとメジャーということですか?
松本 そうです。メジャーを目指してました。普通のバンドと違うのはボーカル以外のメンバーにはサブメンバーも控えていて、どんなスケジュールのライブやレコーディングでも入れ替えで対応可能だったところです。
金子 すごい仕組みですね。
松本 でも中は大変で、CDを出したら自分たちで買わなきゃいけないんです。当然給料もない、そんな状態だから経費は自分たちで賄ってました。
でも、当時は27歳という年齢に焦りがあり、そこにしがみつくことに必死でした。今考えると異常ですけどね。
金子 そのバンド活動はどういったものだったんですか?
松本 言ってしまえば「動くマネキン」でしたね。
金子 動くマネキンというと?
松本 キャラクターや動き方、ファッションまで全て設定されてました。僕らは言う通りにキャラを演じるという感じです。
金子 なるほど。
松本 そんなバンドで数回ライブを行いました。そしてすぐにワンマンライブも開催したんです。立ち上がったばかりのバンドでお客さん入らず失敗、と思いますよね。でも動員が120名を超えたんです。
金子 す、すごいですね、、
松本 バンドは集客が一番ネックになります。でも僕らは演奏とイベント詳細だけ作ってほとんど何もしなくて120人のワンマンライブ。正直驚きました。
金子 その後はバンドはどうなったんですか?
松本 バンドが大きくなっていくとメンバー間のパワーバランスの変化など色々あり、メンバーの一人が就職するというのを機に間を空けずに空中分解しました。
金子 その時の経験が何でも屋のきっかけだったんですか?
松本 芸能ビジネスの考え方はそこでの影響は強いですね。そもそもバンドのボーカルの親族が大手広告代理店の人で、そのバンドのプロデューサーでしたので、考え方はそこで学びましたね。
金子 例えばどんな考え方ですか?
松本 簡単にいうと縦割り構造ですよね。上から降りてくるものをする、ずっとそう思っていました。
金子 縦割り構造やしがみつく事に必死だったというのと自分でやる「何でも屋」とは対極かと思うのですが、それはどのあたりで変わったんですか?
松本 そもそも自分でやるセルフプロデュースという考え方は頭にありませんでした。そんな状態でしたから。しかし、そこのバンドに海保けんたろーさんがいて、「これからのミュージシャンのあり方」とか教えてくれました。
金子 海保さん!ここでも対談させていただきました。面白い方ですよね。
松本 その海保さんの考えと広告代理店での考え方を照らし合わせて「この方法なら個人でも出来るんじゃないか」という考え方に変わっていきました。
同時にそれなら「音楽の仕事を全部みてみたい」という思いも強まり、バンドの経験もあってか自分でやってやるという方向に移っていきましたね。
金子 そこで音楽以外の音楽の仕事、営業やプラニングや事務などの経験をされたんですか?
松本 そこでではないんです。メンバー募集サイトで知り合った企業の社長さんからなんです。
金子 おお?!
松本 怪しさ満点ですが、「音楽をやりたいから力を貸してくれ」というメッセージがきて半信半疑でしたが一応会いに行ったんです。その社長さん全身真っ赤の服で現れたのでファーストコンタクトは凄まじかったです。
金子 僕多分逃げますね。。
松本 それが話しをすると悪い人ではないなと思って、協力することにしました。騙されて失敗する可能性もあったんですが、バイトで生活している現状で未来を考えても転機はこないなと思ったで。石橋を叩いて渡る僕からしたらすごい決断でした。
金子 その決断はなぜできたのですか?
松本 それは虎岩正樹さん(MI JAPANの元校長)の言葉ですね。虎岩さんが主催する交流会に行った時に「何かを得たいなら何かを捨てろ」というアドバイスを頂きました。
金子 なるほど。それで未来の自分を得るために現状の自分を捨てたんですね。
松本 はい。それで社長の会社の秘書をやりました。人の懐に飛び込む技術や、相手が誰であろうと怯まない営業はその社長から学んだと思っています。
金子 そこから今の松本さんが出来上がっていくんですね。
松本 色々やって気付いたら「音楽の何でも屋」と呼ばれるようになっていたって感じですね。でもそれも東京ドームの話につながっていて、最終的には音楽の総合商社を作りたいですね。
松本克樹さんがプロデュースするRUNAさんの楽曲
松本Johnny克樹(ギタリスト)
島村楽器のサポートを始め青山学院大学の文化祭など多数のサポートやレコーディングに参加。元Moon Childの樫山圭に師事により基礎的かつ根本的な音楽活動を学ぶ。その後ライブバーのコンサルタントやフェスなどのプランニング、RUNAのプロデュース等、多方に活動の幅を広げ「音楽の何でも屋」と呼ばれ今に至る。
金子将昭(ジャズピアニスト)
http://www.masaaki-kaneko.com/
1982年富山県生。洗足学園音楽大学音楽学部ジャズ科ピアノ専攻卒。大学にギター科で入学。その後、経験無しのピアノ始め二年次よりジャズピアノ科へ転専攻。サポート仕事と和風なジャズを演奏する自己の音楽活動と並行しながら、音楽と社会をつなげるメディア「Circle」編集長、(同) 前衛無言禅師 代表、ジャズアイドル「JiPP」のプロデュース、東京音楽理論研究大学主催、劇団あーてぃすとら主催、音楽アプリ「lepot」のプルデュース、アーティストや劇団への楽曲提供、フリーランス向けの確定申告サイト運営など多岐に渡る。「百人一首曲付けプロジェクト」とジャズスタンダードをトーク・演奏で楽しむジャズスタンダードちゃんねるをYOUTUBEチャンネルにて更新中。
ワクワク・ケンタロー(カメラマン)
1987年1月20日生まれ、兵庫県姫路市出身、東京都在住。20歳の時に初めてデジタル一眼レフカメラを触り、映像表現の可能性に目覚める。独学で写真と映像を学び、一般企業に勤めながら27歳で映像制作プロダクションを立ち上げる。結婚式の余興動画、音楽家のMV、企業のPV、YouTuberの動画制作支援等を手掛ける。音楽活動面では、双子アコースティックデュオ「新井兄弟」のパーカッション、ツインボーカルを担当。YouTube Channel
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